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🩺当直という幻想:現場医が見た「責任の押し付け合い」構造

深夜2時。当直のPHSが鳴る。

「先生、walk-inで”足がむくんできた”という方が来られています。」

……正直、こういう電話を受けるたびに思う。「今じゃなくてもいいだろう」と。呼吸状態は変わらず、尿も出ている。明日の外来で十分対応できる。

でも、そう冷静に線を引ける医者は多くない。断れば「冷たい」と言われ、受ければ「なぜこんな軽症を診るのか」と疲弊する。日本の医療現場は、この矛盾をずっと抱えたまま動き続けている。

「walk-inを断る=冷たい」ではない

医師は第一印象で緊急性を判断する。それは勘や経験ではなく、10年以上の現場で培われた「臨床直感」だ。声のトーン、受け答えの速さ、息づかい、家族の焦り。ほんの数秒で、「これは緊急だ」「これは様子を見てよい」が分かる。

本当に重症な患者は、電話なんてしてこない。自分で動けないか、周囲が救急車を呼ぶ。だからwalk-inの多くは、救急医療ではなく「不安医療」。それを無条件に受け入れていれば、本当に救うべき命を診る余力を削ってしまう。

冷たいのではない。合理的に線を引いているだけだ。

walk-inは金にならず、評価もされない

現場の評価指標は「救急車の受け入れ件数」だ。walk-inをいくら診ても、病院の評価にはならない。それどころか、時間と体力だけが削られる。

いちばん気の毒なのは、断る際に患者家族へ説明しなければならない事務スタッフ。医師の判断を代弁して矢面に立つ。善意と感情の間に挟まれて、毎晩すり減っていく。

本来なら、「walk-inは原則お断り、緊急は救急搬送で」と病院として明文化すべきだ。個人判断ではなく、組織の方針として。そうすれば、誰も悪者にならなくて済む。

当直という制度は、すでに構造的に破綻している

そもそも日本の「当直」という仕組みが異常だ。1人で外来・病棟・救急すべてを背負い、明けても通常勤務。手当はコンビニ夜勤以下。法律上も、休憩と労働の境界があいまいなまま放置されている。

海外を見れば、状況は大きく異なる。アメリカではHospitalistやER医が完全シフト制。イギリスではNHSが三層トリアージを整え、ドイツでは救急当番医が契約ベースで報酬明確。「修行」でも「奉仕」でもなく、医療を社会インフラとしてシステム化している。

日本だけが、昭和の精神論で動き続けている。

世代間の価値観が生んだ「根性論医療」

「俺らの頃はもっと大変だった」 「寝られるだけマシだ」

そんな言葉で若手の不満を押さえつけ、改革を「甘え」と切り捨ててきたのが上の世代に多く見られる傾向だ。でも実態は、「善意と根性」で現場を維持する構造に依存してきただけ。この価値観が残る限り、医療は前に進みにくい。

必要なのは、個人の根性ではなく、持続可能なシステムだ。

責任という爆弾を、誰かが必ず引く

医療の世界では、「責任」という見えない爆弾をみんなで回し合っている。

受ければ「誤診の責任」、断れば「見殺しの責任」。上は説明で逃げ、現場は判断で潰れる。そしていつも、誰かがババを引く。

それでも医療は続く。誰かがその爆弾を受け取ってくれるから。

おわりに

上に立つほど責任から離れ、現場にいるほど責任が重くなる。それがこの世界の現実だ。

正直、もし自分がその立場になったら、「責任は軽い方がいい」と思うかもしれない。でも、それこそが医療の負のループ。人が燃え尽きても、仕組みだけは壊れない。

だからこそ、せめてこの現実を見える言葉にして残したい。医療は善意で支えるものではなく、構造で守るべきものだから。

変えるべきは、個人の精神力ではなく、システムそのものだ。